天神さま、菅原道眞公のお話

天神さまは頭脳の神様です。
そして実在の人物でした。
どうして神様になられたか。
生きておられるときはどんな方だったのか。
実は知らないことがたくさんあります。
皆さまに天神さまにもっと親しんでいただくために、
今月からその生涯のお話をここに記してまいります。
では、はじめましょう。


―菅原道眞公とは―

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第五十話
その23 筑紫への道

明石から先は、誰一人知る人もなく、初めて見る中国・九州の景色は、ただ菅公の涙をそそるばかりでした。

菅公は、流されゆく筑紫への旅路を巧みな詩で、次のように述べました。


勅使の駆けつつ、いて去りしより

父子一時に五所に離る

口言うことあたわず、眼中血走る

ふし仰ぐ、天神と地祇とに

東(とざま)に行き 西(こうざま)に行き
                雲はるばる
二月(きさらぎ)三月(やよい)日うらうら

関を重ねて 警(いまし)め固く知聞断つ

一人寝辛く酸くして、夢見ること稀なり

山河遥かにして、行くがままに隔たり

風景暗然として、旅路ながら移る

平にして謫所(←たくしょ・・・罪を受けて流されている所)にいたるとも誰とともに食べん

生きて秋風に及ばば、定めて衣無からん

古(いにしえ)の三友は一生の楽しみ

今の三友は一生の悲しみ

古(いにしえ)今と同じからず

今古に異なり

一悲(いっぴ)一楽(いちらく)志(こころざし)の行く所。



解説
  ↓
(勅使のあわただしい往来に
引き立てられてより
親子は、遠い五箇所に
全くはなればなれになった。

あまりの驚きに物もいえず目は血走り
ただ天を仰ぎ地にふして
神に祈るばかり。

その後、筑紫までの野路山路を
東に西に引き廻されては
行く手の雲のはるけさよ。

時は二月三月
まさに春の盛りの一日一日を
固め厳しい関所関所を護送されて
家のたよりも聞かれず
ひとりねも、眠りづらくて
何の夢を結ぼう。

遥かに望む行く手の山川は
進むにつれて後に遠ざかり
物憂い心には、美しい景色も
暗い色を帯びて映り
長い旅路を後へ後へと過ぎていく。

かような身の上で、
たとい配所(=たくしょ、
罪を受けて流されている所)
に着いたとしても
誰を相手に箸がとれよう。

もし秋まで命ながらえたとしても
かえりみる人もない身には
着る衣もあるまい。

昔、白楽天は、琴と酒と詩とを友として
一生の楽しみとしたが、今のわが身は
この三つを友として一生を悲しむ。

昔は今と同じではなく
今はまた昔と異なる。

悲しみも楽しみも、ただ心次第
私には全てが悲しみの種である)




22後編を読む

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第四十八話
その22
明石の驛(うまや)【前編】

都の町はずれまでは、奥方の名代(みょうだい・・・ある人の代わりをつとめること。また、その人。)として、使いの者が見送ってまいりました。筑紫までのお供がかなわぬというので、せめてもの名残を、使いを立てて、途中まで見送られたのでありましょう。

その使者が、いよいよお別れを申し上げて、都の方に引き返そうとすると、菅公は歌を詠んで、これを奥方に伝えよと命ぜられました。

その和歌は、次の通りでありました。

君が住む宿の梢(こずえ)をゆくゆくも
      かくるるまでにかえり見しやは

わずかに四年の間、讃岐に行っていただけで、五十幾年という永い間住みなれた平安京です。そこには祖先代々の人々が眠り、奥方もさびしく残されています。

菅公は後ろ髪を引かれる思いで、幾度となく東の方を振り返りました。やがて奥方の使者の姿も消えてしまい、東寺(とうじ)の五重塔もかくれてしまいました。

菅公は眼を閉じて、ただ奥(こし)の揺れるのに身をまかせていました。

今の大阪を、その頃は、難波といっていましたが、その難波から船に乗ることなっていました。

菅公は、船に乗る前の一日をさいて、今の道明寺、その頃の土師(はじ)の里に行かれました。

それは、ここに覚寿尼(かくじゅに)というおば様がおられたからであります。

覚寿尼(かくじゅに)も、風のたよりにこの度のことを聞いてはいましたが、女の身、それに年老いては、せんすべもないと諦めていましたのに、菅公の突然のおとづれ、覚寿尼(かくじゅに)は夢かとばかりよろこんで、菅公の手をとって泣きくずれました。

それは、思いがけなくも会うことの出来たよろこびと、不幸な甥(おい)の身の上を悲しむ心とのうれしくも悲しい涙でありました。

その夜、年老いたおばと、これまた白髪まじりの甥(おい)との物語は、それからそれへと中々つきませんでした。

是善卿(これよしきょう・・・菅公の父)の生きていた頃のこと、菅原院(すがわらのいん)、さては紅梅殿のこと・・・・・。

覚寿尼(かくじゅに)はきいては語り、語っては泣くのでした。

もはや残る命も長くないと思うおばにとっては、これがこの世での最後としか思えません。

そう思えば、いくら語っても、いくら泣いても、まだ足りません。菅公にしても、とっくの昔に両親を失っていますので、覚寿尼(かくじゅに)と語ることは、母に告げ、父と語るように思われて、なつかしくてなりません。

二人の話は、いつ果てるともわかりませんでした。


第四十九話
その22
明石の驛(うまや)【後編】


だしぬけに、家の外から、一番鶏の鳴き声が聞こえて気ました。

「ああ、もう夜が明ける。」

覚寿尼はハッとして、そういいました。

菅公はここでまた、一首の歌を作りました。

鳴けばこそ 別れを急ぐ 鳥の音の
     聞こえね里の あかつきもがな

(鶏が、夜明けを鳴いて知らせるから、別れを急いで心も落ちつかない。夜明けを告げる鶏の声の聞こえぬ里は、ないものであろうか。)

やがて夜は、しらじらとあけはなれました。

「では叔母上、くれぐれもお大切に。」

「あなたも、お体をお大事に」

別れ行く菅公の後姿に覚寿尼は幾度となく腰をかがめました。その老いの眼に、涙が一杯たたえられていたことは、申すまでもありません。

菅公は、何度となく振り返り振り返り、難波の船着場(ふなつきば)へと、重い足を引きずって行くのでした。

船は明石に着きました。

勅使の藤原眞輿らは、難波から都に引き返し、今は、左衛門少尉義友益友(さえもんのしょうじょうよしともますとも)と衛士二人とだけが、菅公の警護をしています。

明石には驛(うまや)がありました。

驛(うまや)というのは、主な道路の所々に置かれ、また、大切な船着場にもあったもので、そこには、馬や人夫(にんぷ・・・昔、公役に徴用された人民)を置き、主として御上(おかみ)の御用で旅行するものの必要に応じてそれを使わせ、また食事や宿泊の世話をしたりするところです。

馬を置いていたところから「うまや」と呼ばれ、驛長は「うまやのおさ」といっていました。

山陽道(さんようどう)から、都へ通ずる道路は、明石を通り、明石は、また、瀬戸内海での主な船着場でもありましたから、ここには驛が置かれてありました。

菅公は、讃岐(さぬき)への往復の途中、度々この明石を通り、ある時は、ここの驛の壁に詩を書いてやったこともあり、ここの驛長をよく知っていました。

驛長は、また度々菅公の気高い人格に接して、早くから菅公を尊敬していました。

讃岐から都に帰られて後は、ずんずん官位が昇り、右大臣にまで進まれたとの噂も、人づてに驛長は聞いていました。

御上の御信任が誰よりも厚いということも、この明石の浦まで聞こえていました。

その菅公が、一体どういう罪を犯されたというのだろう。それも筑紫の果てまで流されるなんて、これはまた何ということだろう。

驛長は、いくら考えてみても腑に落ちませんでしたから、思い切って、事の次第を恐る恐る菅公にうかがいました。

菅公は、さびしく笑ったまま、何も答えずに、そこにあった筆をとりよせ、次の詩を書いて驛長に見せました。

驛長 驚くなかれ 時の変わり改るを。
一栄一落(いちえいいちらく)是れ春秋。

(驛長を、何も驚くことはない。時勢が変わったのです。自然界にも、花の咲く春があると思えば、葉の落ちる秋もある。人の世も、この通りです。時が変われば栄えていた者も衰える。これが世の中の道理です。)

時を示されても、驛長は、まだ納得のゆかぬ面持ちでした。


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21話後編を読む


第四十六話
その21
流れゆく身【前編】

「醍醐天皇を廃し奉って、斎世(ときよ)親王を天皇の御位におつけ申し上げようなど、そんな大それたことは夢にも考えたことがない。
全く身に覚えのないことで、官職を奪われ、九州の果てに流されるという。
それも、自分のみか子供達までも。
いや、自分に親しかったというだけの理由で、流された者も多い。」

菅公は、考えれば考えるほど、情けなくてたまりませんでした。

「しかし、天皇の御言葉である。天皇のご命令とあれば、従い奉らねばならぬ。」

と菅公は嘆きのうちにも、もはや心をとりなおしました。

過ぎ去った今日までのことを思い起こせば、いろいろと胸に迫ってくるものがありました。

中でも、宇多法皇の御恩が思い出されました。海よりも深い御恩の万分の一にもお報いできぬうちに、退けられて、九州の果てに下らねばならない。何としても、それが一番心残りでした。

「せめて一言、御暇乞い(いとまごい・・・別れを告げること。別れのあいさつ。)申し上げておかねばならぬ。」

その心を一首の歌に詠んで、法皇の御許(おんもと)にお届けいたしました。

流れゆく我はもくづとなりぬとも
       君しがらみとなりてとどめよ

法皇は、これを御手にされて、夢かとばかり驚きになりました。全く寝耳に水のたとえのとおりでした。

それを御覧になるが早いか、とるものもとりあえず、御供の行列も整えさせられずに、急ぎ内裏(だいり・・・皇居)へとお向かいになりました。

常は御乗物に召さるる御身ながら、御急ぎなので、今日はその御用意を命じ給う御暇(おいとま)もなく、御日常の御召物のままで御徒歩(おんかち)です。

道眞の身の上を御案じになって、一刻も早くと急ぎ給う法皇の御心は、まことに尊き極みでありました。

やがて内裏の御門に近づき給うて、御覧になれば、御門の扉は固く鎖され(とざされ)、番兵が厳重に守っています。

「帝への対面である。門をあけよ。」

と仰せられましたが、番兵たちは、

「ただ今、御門の御通行は、かなわぬとの御命令でございますから。」

と申し上げるばかりです。

これも時平らのたくらみでありました。

菅公を流すときまれば、きっと法皇が御出ましになって、天皇に御聞きただしになるに違いない。そうしたら時平らのたくらみがあらわれて、それこそ大へんだ。

菅公が罪におちないのみか、反対に自分達が罰を受けることになる。何よりも大切なことは、法皇と天皇とが御対面なさらぬことだ。たとい法皇がお越しになっても、内裏へお入れ申してはいけない、というので、下役人達に固くいいつけて、御門をしめさせ、その番をさせていたのです。

法皇はこれはただ事でないと思し召され、

「では、門のあくまで、ここで待っておる。」

と仰せられ、恐れ多くも御敷物を地に敷かれて、お待ちなさいました。



第四十七話
その21
流れゆく身【後編】


さすがに、番兵の中にも、法皇様をこの真冬、御門の外へお待たせ申すのは、あまりにももったいないことだと思うものもありましたが、しかし、御門をお通し申してはならぬという命令によって、どうすることもできませんでした。

番兵たちが、もじもじしているところに、やってきたのは藤原菅根(ふじわらのすがね)です。

法皇の御姿を拝しましたが菅根(すがね)はそ知らぬ顔で、大声をあげて、番兵たちを叱るように申しつけました。

「御門をあけてはならぬぞ。」

日は、間もなく西の山の端(は)に入り、あたりに夕闇が迫ってきました。

御門を守る者どもは、相変わらず厳重に門を警めています。(いましめています・・・警戒する)

法皇も、今はこれまでと、とうとうお立ちになって、重々しい御足どりで、内裏から離れて行かれました。

いよいよ、筑紫への出発の日がまいりました。

勅使藤原眞興(ふじわらのさねおき)を先頭に、衛士の者たちは、物々しいいでたちで、紅梅殿にやって来ました。衛士たちの囲んでいるのが、菅公を乗せる輿(こし・・・二本の轅(ながえ)に屋形を乗せて人を運ぶ乗り物。肩に担いだり腰の辺りに手で支えたりした)でありましょうか、それは極めて粗末なものです。

太宰権師に任ずるとはいいますが、それはやはり罪人扱いです。輿の粗末なことでも、そのことはよくわかります。

紅梅殿には、菅公と幼いお子達四人とがいました。奥方は、二三日前からよそに移っておられ、今は自分と一緒に筑紫に下ることになっている、お子達がおられるだけです。

出発の時刻が迫りました。眞興(さねおき)はとげとげしい声で

「用意はよいか。」

と、居丈高(いたけだか・・・人を威圧するような態度をとるさま)にどなりました。

菅公には、永年済みなれた紅梅殿です。

今が最後と思えば、庭の竹にも、軒端(のきば)の梅にも、あらゆるものに名残が惜しまれます。なつかしげに庭を見まわして後、階(きざはし)を一、二段下りました。

その時です。菅公はふと足を留め(とどめ)、梅の方を見やって何か呟きました(つぶやきました)。

それは一首の和歌でした。

東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花
        あるじなしとて 春な忘れそ

それから一時間ばかりした頃、菅公を乗せた輿は、もはや平安京の町はずれを、西に向かって進んでいました。

つづく

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第四十四話
そのS
禍(わざわい)きたる【前編】

時平はかねがね天下を自分一人で、思うままに切りまわしたいと思っていました。

さすがはわがままで、皇室をもないがしろにし奉った基経の子です。たとえ左大臣の自分より下であっても、菅公がいては、どうも自分の思うままにならぬ、早く何とかなってくれればよいがと、そんな勝手なことばかり考えていました。

ところが、人の噂では、一度は菅公に、関白になるようにとの勅命があったとのこと、それを聞いて時平は気が気ではありません。

そこで、清行に理屈を並べさせてみましたが、菅公は平気です。

「もし、関白にでもなられたら、もうおしまいだ。今のうちに何とかしなければ。」

と時平は首をひねるのでした。

菅公がいなければよいと思うものは、時平のほかに、まだ幾人もいました。

まず、源光(みなもとのひかる)があります。この人は仁明天皇の皇子に生まれ、その御女が醍醐天皇の女御(にょうご・・・天皇の寝所に侍した女性で、皇后・中宮の下、更衣の上の格。多くは摂関など名家の子女から選ばれ、人数は不定。平安中期以降、女御から皇后を立てるのが例となった。)に上っているというのに、菅公から追い越されてしまい、また大納言です。

「菅公がいなかったら、右大臣になれようものを。」

と思えば、光は、菅公がいまいましくてなりませんでした。

題意納言藤原定国(さだくに)という人も、そうでした。藤原氏では本家筋の内大臣高藤(たかふじ)の子だというので、やっと大納言になれたのですが、この人もまた

「菅公がいなかったら。」

と思っています。そして右大臣を兼ねたいと思っていたのに、菅公がそれを兼ねたので、一層心中おだやかではありませんでした。

また藤原菅根(すがね)という者もいました。もともと菅公の世話で役人にもしてもらったくせに、その頃は忘れて、今は全く、時平にくっついています。

「類を以って集まる。」

ということわざがあるように、これらの人々は、いつしか時平を中心に集まり、菅公蹴落としの相談をするようになっていました。

こうしている間に昌泰三年(900)も暮れ、四年(延喜元年)の正月になると、さすがに悪知恵の多い連中ですからうまいことを考え出しました。

それは、こういうことでした。

「醍醐天皇の御弟宮斎世(ときよ)親王(親王)の妃は、菅公の女であるが、菅公は、醍醐天皇を御位からおろしまいらせて、斎世親王を御位におつけ申し上げよう、という恐ろしいたくらみをしている。斎世親王が天皇の御位におつきになれば、菅公は外戚(がいせき)となるわけだ。こうして、菅公は権勢(けんせい)を張ろうというのだ。」

根も葉もない真赤な嘘なのですが、こういいふらして、菅公を免職にしていただこうというのです。

早速、このことを天皇に申し上げましたが、天皇は一向にそれをお信じになりません。時平達は、これではいけないというので、手を変え品を変えて何度も何度も申し上げました。

菅公は、もちろん、そんなことをいわれているとはつゆ知りませんでした。



第四十五話
そのS
禍(わざわい)きたる【後編】


たくらみは人知れず進められ、正月二十五日になると、その日、宮中は衛士(えじ)達によって、ことのほか厳しく守られました。

その中を天皇は紫宸殿(ししんでん・・・平安京の内裏(皇居)の正殿で,即位などの重要行事が行われる)に出御遊ばされ、詔(みことのり)をお下しになりました。

それは、大体、次のようなことでした。

「右大臣菅原道眞は、いやしい家より出て大臣にまで昇り、身の程も知らず権力を振るい、たくみなことばで、法皇をあざむき奉り、ついには、斎世(ときよ)親王を、皇位につけようとの野心を抱くにいたった。
これは、法皇と朕との父子の仲をさき、朕と斎世親王との仲をわるくしようとするものである。道眞のいうことは立派なように聞こえるが、実は中々悪賢い(わるがしこい)。
道眞がかような野心をいだいているということは、天下の人々の知っていることで、到底大臣の位におくことはできない。そこで道眞を右大臣の官よりおとし、太宰権師(だざいごんのそつ)とする。」

菅公は詔を承って(うけたまわって)、打ちのめされたように感じました。

一緒に承った人達も、もちろん、驚き入りました。

菅公がおとされた太宰権師というのは、一体どんな官でしょう。

それがわかるためには、大宰府という役所のことを知っていなければなりません。

大宰府というのは、九国二島、すなわち九州全部と壱岐(いき)・対馬(つしま)とを管轄し、兼ねて支那・朝鮮その他の外国との交際のことをつかさどる、いわば国防と外交のことにあたる役所で、今の福岡県の大宰府の地に置かれていました。

この役所には、帥(そつ)・貳(に)・監(じょう)・典(さかん)などの役人がありました。
帥(そつ)が大宰府の長官です。
帥(そつ)になるのは大抵は親王ですし、帥(そつ)に次ぐものに、なお権師(ごんのそつ)というのがあり、これは納言以上の者を以って任ずるというのですから、どうして権帥(ごんのそつ)という官は、さほど低いものではありませんでした。

しかし、菅公は右大臣です。
それが都離れた九州の大宰府に行き権帥(ごんのそつ)になるというのです。

それだけでも気の毒に思われますが、菅公の任ぜられた権帥(ごんのそつ)というのは、実は員外権帥(いんがいのごんのそつ)で、実際の政務にあたるわけではなく、ただ名前ばかりなのです。

右大臣の高きよりおとされて、筑紫へと流される。

花の都をあとに、草深い九州へ。

―――何という大した変わり方でしょう。いつかは災難にあうかも知れぬと、うすうす思わぬでもありませんでしたが、まさか、こんなに早く、こんなひどい目にあおうとは、さすがの菅公も思いも及びませんでした。

あまりの変わり方に、菅公はただぼんやりとするばかりでした。

それから2日たった27日には、一層菅公を悲しませることが起こりました。

それは
菅公の長男、従五位上右少弁高則(じゅごいじょううしょうべんたかのり)は土佐国(とさのくに)へ

ほかに、
従五位下式大丞影行(げしきのぶのだいじょうかげゆき)は駿河(するが)の国へ

正六位下文章得業生敦茂(もんじょうとくぎょうしょうあつしげ)は播磨国(はりまのくに)へ

それぞれ流されると決まったことでした。

こうして父子五人の者が、別れ別れになることになったのです。

後に菅公は、この時のことを詩に作りました。それには、

「父子五人が、一度に五箇所に離れ離れになる。このくやしさといったら、とても口に出していいあらわすことは出来ず、その思いは眼にあふれて、眼は血走っている。ああ、ただ天を仰ぎ地に伏して、天地の神に祈るばかりである。」

菅家の人々を、これほどの悲しみにたたきこんでおいて、にくにくしいことに、時平らは

「朝廷の官職は一日も欠き得ない」

といって、源光(みなもとのひかる)を右大臣に、定国(さだくに)を右大将に、菅根(すがね)を蔵人頭(くろうどのとう)という風に、一味徒党の者どもを任じていただきました。

時平のにくいのは、それだけでありませんでした。

たくさんの人々を、菅公の仲間だといって流したのです。

近衛中将(このえのちゅうじょう)源善(みなもとのよし)を出雲権守(いずもごんのかみ)

大春日春陰(おおかすがのはるかげ)を三河(みかわの)掾(じょう・・・国司の判官)

右大史(うだいし)藤原諸明(もろあき)を遠江権掾(とおたうみのごんのじょう)

源巌(いわお)を能登(のとの)権掾

源敏相(としすけ)を但馬権守(たじまのごんのかみ)

山口高利(やまぐちのたかとし)を伯耆権目(ほうきのごんのさかん)

少納言和薬貞世(くすりのさだよ)を美作守(みまさかのかみ)

良岑貞成(よしみねのさだなり)を長門権掾(ながとのごんのじょう)

前摂津守源兼則(さきのせっつのかみみなもとのかねのり)を阿波権守(あわのごんのかみ)に

という具合でした。

時平は、それでもまだ足りないといって、朝廷に仕えている者で、もと菅家の門人だったものは、すべて朝廷から追い払おうとしましたが、しかし、それはあまりひど過ぎると、清行がいさめましたので、これだけは思いとどまることにしました。

続く

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第四十二話
そのR
御衣を賜わる【前編】

朝廷では一年のうちに、いろいろな儀式をとり行なわせられます。

中でも、正月にとりわけ儀式が多く、その正月の儀式の一つに朝勤行幸(ちょうきんぎょうこう)というのがありました。これは上皇への始めのご挨拶のため、天皇が御出ましになることです。

昌泰三年(900)の正月にも、この朝勤行幸が行なわれました。行幸遊ばされるのは醍醐天皇、御挨拶をお受けなさるのは、宇多法皇(昌泰二年十月、落飾(らくしょく)し給う。)にまします。

右大臣菅原道眞も、この行幸の御伴(おんとも)を申し上げました。

天皇と法皇とは、一通りのご挨拶をお済ませになると、あとは、いろいろの御物語りをなさいましたが、お二方のお話は、いつしか国の政治のことに移ってまいりました。

ことに、これからさきの日本の政治を、どう進めたらよいかということについて、法皇はご熱心に、お考えをお述べになりました。

そして法皇は、菅公を関白に任じて、すべての政治をおまかせになるがよい、と仰せられました。こうしたことのあった同じ年の9月9日、いつものように菊の節供というので、宮中では盛んな御宴が開かれ、参列した人々は、与えられた題に対して詩を作りました。

もちろん、菅公もその中の主な一人でした。

あくる十日にも、また御宴があり、その日は、『秋思(しゅうし)』という題で詩を作ったのでした。

この時の菅公の詩は次のようでありました。


丞相(じょうしょう)年を渡りて
    幾たびか楽思(らくし)せり。
今宵物に触れて
    自然に悲しむ。
声は寒し、絡緯(らくい)
    風吹くの虜(とりこ)
葉は落つ、梧桐(ごどう)
    雨打つの時。
君は春秋に富み、
    臣は漸(ようや)く老いたり
恩は涯岸(がいがん)なく、
    報ゆること猶(なお)遅し
知らず、この意いづくにか
    安慰(あんい)するを。
酒に飽き、琴を聴き、
    また詩を詠ぜん。


これをやさしく書き直すとあらまし次のようです。

陛下の御寵愛によって大臣にまでしていただき、楽しい月日を送ってまいりましたが、今宵は何となく物さびしく、何となく悲しい思いでいっぱいでございます。

吹く風と共に、くつわむしの鳴き声はうすら寒く感ぜられ、降る雨に、はらはらと桐の葉の落ちゆく秋のことですから、ひとしお物悲しく思われます。

陛下には、まだお若くて将来がおありでございますが、私はもう年をとってしまいました。

陛下の御恩は限りなく大きいのに、その御恩返しは中々出来ません。

どうしたら、この心持を慰めることが出来ようかと考えますがどうもわかりかねます。

唐の白楽天(はくらくてん)は、官を退いて後、酒と琴と詩の三つを友として、楽しみ暮らしたということですが、私にも、それよりほかに道はございますまい。

天皇は、この詩に大へん御感心あそばされ、その場で御召物を脱がせられて、菅公に賜わりました。度々お褒めの御言葉をいただきましたが、何と今日は人々の見ている中で、御衣(ぎょい)を賜わるというのですから、こんな光栄はまたとありません。

菅公は、ただただ有難さに感泣するのみでありました。


第四十三話
そのR
御衣を賜わる【後編】

それからちょうど一ヶ月の後、菅公は突然右大将を御辞退いたしたいと申し上げました。右大臣の高きにおりながら、右大将の官を兼ね、その上度重なる光栄を得ては、これは身の程に過ぎる、人からねたまれもしようと考えたからです。

この時も御聞き届けがありませんでしたが、しかし、菅公のそう考えたのは、決して思い過ぎでなく、世間でも、いろいろ陰口をきいている様子でありました。

それは、三善清行(みよしきよゆき)から、菅公に宛てて来た手紙からでもわかります。

清行からの手紙には、あらまし次のようにして記してありました。

「公は学者の地位から進み、大臣にまで昇られました。これは朝廷のなみなみならぬ御恩によることでありますが、学者としての名誉でもございます。

大体こんなことは珍しいことで、昔からの例を見ても、吉備真備(きびのまきび)公以外にはありません。しかし、人間は足ることを知らねばならぬと申しますし、また、近頃の星の動きを見ますと、高官の方に災いがあるかも知れぬということを知らせています。

ことに来年はちょうど辛酉(かのととり)の年にあたり、これは世の変わり目だと申します。ひとつこのあたりで、おやめになってはいかがかと存じます。そうしますと、後の代の人々も、それをうるわしいことだと尊敬するに違いありません。」

菅公は、清行のいうくらいのことを知らぬ人ではありませんでした。しかし、菅公はしっかりした学者でありました。

支那でいわれることなら、何事でもそのまま信じ、書物に書いてあれば、それを皆鵜呑みにするというような、そんなつまらぬ学者ではありませんでした。清行のいうようないい加減な理屈から、天皇の深い御信任をもかえりみず、軽々しくやめてしまうような人ではなかったのです。

しかし菅公は、この手紙で、世間には、自分をやめさせたいと思っている者のあることを、はっきりと知りました。

清行が、この頃、時平の家に出入りして、そのお先棒(さきぼう)をかついでいるところから見れば、いかにも親切に忠告してくれているようでもあるが、果たして真心からの忠告かどうか、怪しいものである。

身の安全のためからいえば、このへんでやめるのがよいかも知れない。しかし、あれほどの御信用下さる法皇や天皇の御心を拝察申し上げれば、自分一個の安全のために退くなどということは、絶対に出来ない。そうだ、大君の御為(おため)だ、たおれるまでやり抜こう。―――

菅公はかように決心して、昌泰三年の冬を過ごし、四年(延喜元年)の春を迎えるのでした。

つづく

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Q後編を読む


第四〇話

そのQ
右大臣に昇る【前篇】
     
太政大臣藤原基経(だじょうだいじんふじわらもとつね)のなくなったのは、寛平三年(891)のことでありました。この時の左大臣は源融(みなもとのとおる)、右大臣は藤原良世(よしよ)でした。

二人の中のどちらかが、基経のなくなったあとをついで、太政大臣になるかと思いましたが、どちらも任ぜられません。もちろん、ほかの人はなりませんでした。

そこで、基経がなくなると、左大臣の源融(みなもとのとおる)が、一番上ということになりました。

ところが、その融(とおる)は、寛平七年になくなりましたから、右大臣の良世が左大臣に進み、右大臣には源能有(よしあり)もなくなってしまい、結局醍醐天皇の御即位遊ばされた時は、大臣は一人もなく、大納言(だいなごん)藤原時平(ときひら)が一番上で、次の権(ごん)大納言に源光(ひかる)と菅原道眞の二人がいました。

しかし、源光というのは、家柄がよいから、これまで進んだというだけの人でしたから、主に醍醐天皇をお助け申し上げるのは、実は時平と道眞とのただの二人だけでした。

そんなわけでしたから、昌泰二年(899)になると、この二人が並んで大臣に進み、時平が左大臣に、道眞が右大臣に任ぜられました。

公卿になったのでさえ、珍しいことだと驚いたのに、今や道眞は、右大臣という高い官にまでも、昇ることになりました。

太政大臣・左大臣・右大臣を三公と申しました。道眞のことを菅原道眞公、または菅公(かんこう)といいますのは、この人が三公と数えられる右大臣であったからです。今まで、道眞道眞と呼び捨てにしてきました私も、これからは、公の字をつけて呼ぶことにしましょう。

参議になった時でさえ、世間の嵐は菅公にひどくあたりました。それが、更に伸びて、今は右大臣という高い木になったのですから、風当たりは一層強くなりました。

世間の人達は、大臣になるのは、藤原氏とか、源氏とか、家柄のよい家に生まれた者だけだと考えています。そこで菅公が右大臣になったということを聞いて、ただもう驚くばかりでした。

「学者のくせに、右大臣にしていただくなんて生意気だ。」

というかと思うと、

「一体、学者の家に生まれた者で、大臣にまでも昇った者があるかしら。」

「いや、無いことはない。今から百二十年ばかりも前に、吉備真備公(きびのまきびこう)が、ただ一人だけある。」

「そうかね、でも吉備公はお偉かったからね。とても道眞などの、及ぶお方でないよ。」

と言い合う者もあります。

吉備公と菅公のどちらが偉いか、本当に菅公は吉備公に及ばないのか、そんなことはよくは知らなくても、菅公を何とかして悪くいわねば、気がすまないのです。

ただ陰口をきくぐらいは、仕方がありませんが、菅公の身近に、まだまだ、ひどく悪く思うものが沢山いました。

まず、源光(みなもとのひかる)があります。光にしてみれば、自分は道眞などとは比較にならぬよい家柄の生まれなのに、道眞の下にすわらねばならぬとは、こんないまいましいことはない、と思いました。

それも、初めから菅公が上で、光は後からついてゆくというのならまだしも、菅公が参議になった時、――初めて公卿の仲間入りをした時は、光はすでに中納言で、公卿では上から四番目、菅公など遥か下に見下ろしていたのに、五、六年のうちに追い越されてしまったというのですから、光にしてみればたまりません。

大納言藤原高藤(ふじわらたかふじ)もそうでした。この人は今を時めく藤原氏の別れである上に、醍醐天皇の外戚に自分が当たるというというわけですが、その高藤が菅公に勝てないというのですから、この人もくやしくてなりませんでした。

光や高藤のように、菅公の下にすわるわけではなかったが、菅公のことが気になってたまらないのは時平でした。



第四十一話
そのQ
右大臣に昇る【後編】


時平が左大臣、菅公が右大臣と、二人は並んで大臣になったのですが、その時、菅公は55歳、時平は29歳、まるで親と子ほど歳が違いました。

年だけからいっても、時平は菅公の相手にもなりません。それに、菅公は、この上もなく真面目で、学問は深い。

時平は少しは気がきくが、落ち着きがない。その上、学問などは、ほとんどわからぬといってよいくらいですから、誰が見ても時平には、まだ菅公ほどの重みがありません。

こんな風ですから、世の中の人たちも。時平よりは菅公を尊敬しますし、宇多上皇の御信用の菅公にお厚いのも、当たり前です。

しかし時平は、それがくやしくてたまりません。

それに生まれた家のことを考えると、菅公が自分のすぐ下で大臣をしているというのでさえ、時平は気に入りません。

「たかが文章博士の子のくせに、自分と並んで大臣なんて、大体生意気だ。自分の父は関白太政大臣だった。
お祖父さんは摂政だった。また、昔からお幾人も皇后様をお出し申している。
その藤原家の長男に生まれた自分と方を並べるというのは、何と身の程知らぬ道眞だろう。」

時平はこう思っていました。

数えてみれば、菅公をねたむ者が少なくありません。しかも菅公には、味方となって力づけてくれる者はありません。

賢い菅公は、きっとこうなることだと知っていましたから、早くも右大臣に任ぜられようという時、それをご辞退しました。

「私の家は代々学問をいたすというだけで、別に貴い家柄ではございませんが、宇多上皇の御恩によりまして公卿にしていただき、それから、今日まで昇進させていただきました。
そして今はまた、右大臣になるようにとの思し召しでございます。
これはまことに有り難くは存じますが、よくよく考えてみますと、ほかの人たちにわるいと存じますから、おことわり申し上げます。」―――

あらまし、このようなことを書いて、御辞退申し上げましたが、すぐ翌日勅使が、この上表文(じょうひょうぶん)を返しに来られて、ぜひともお受け申すようにとのことでした。

菅公は、しばらく考えてみましたが、やはり御辞退申し上げたいと、二回目の上表文を奉りました。その中には、

「今、大納言や中納言といって、私の下に並んでいる者の中には、家柄・血統のよい家の人が多く、しかも、こんな人達は、私がまだ書物を抱えて勉強していた頃から、高い位についておられました。
そんなことを考えますと、私が大臣にしていただくことは、火の中にすわって、焼けるのを待つようなものだと存じます。」

という言葉も見えました。

しかし、これもまたお聞き届けにならず、その日すぐ勅使を使わされて、どうしても右大臣になるとうにとの仰せでした。

菅公はまた、御辞退申し上げました。
その上表文では、

「宇多上皇の御恩顧をこうむりましてより、まだ10年しかたたないのに、私は高い官に昇り、棒給もたくさんいただくようになりました。

これは、私の身分に過ぎると存じます。

きっと世間の人も、よくは思わぬに違いございません。

人間のあまりにも満ちたり過ぎることは、神もおよろこびにならぬと申しますから、どうか私の辞退をお聞き届け下さいますよう。」

と申し述べました。

菅公は、とうとう三度にわたって御辞退申し上げました。

高い官職に任ぜられた時、実際に辞退する気はなくても、三度上表文をしたためて辞退申し上げる風があったということを、さきに記しましたが、菅公の御辞退は、決してさような形ばかりのものではありませんでした。

菅公の申し上げる言葉は、いかにもその頃の世の中の世情をよく語っており、どうかしておことわり申し上げたいという気持ちであふれていました。

しかし、何としてもお許しがありません。

菅公は、心の中で苦しみました。

どうしても御許しがないとなれば致し方はないが、いよいよ右大臣をやめないときまれば、きっと悶着(もんちゃく)が起こるに違いない。

自分を悪く思う人達に取り巻かれながら、右大臣のつとめを果たそうとしたところで、到底それは出来ることではない。

ちょうど、羽をなくした虫が飛ぼうというのと同じことだ。―――

いや羽はなくても飛ぼう。

周囲の人が変に思うなどというのは、自分のことばかり考えている身勝手というものだ。

思うてもみよ、自分の身の安全ばかりを考えていて済むと思うか。10年このかた、宇多上皇から賜った広大な御恩、今また右大臣にとのありがたい思し召し、それを思えば、たとえ火の中にでも飛び込まねば済まぬではないか。―――

ここまで考えると、もう菅公の進む道は、はっきりしてきました。もはや、菅公は迷いませんでした。

右大臣はやめないと決心しましたが、上表文にも書いたように、俸給をいただき過ぎるというので、半分にしていただくようにと、お願い申してみました。

しかも、これもお許しがありませんでした。

菅公は、深く御信任下さる天皇の御心に感激し、後でどんなことが起ころうと、そんなことは全く気にもとめず、ただ天皇の御為、日本の国のため、この身を捧げようと、決心したのでした。

そしてそれは、人の上に立って威張ろうとか、たくさんの棒給をいただいて贅沢をしようとか、そんないやしい気持ちからでは、決してありませんでした。


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第三十八話

そのP
大和への旅【前篇】
     
ここ大和(やまと)の秋は、野も山紅葉の錦をまとい、道端の柿の木には、柿の実が真赤にうれ、空は青く、水の流れは清らかです。

この美しい大和路の秋を、心ゆくばかり楽しもうというのでしょう。馬に乗ってはいますが、急ぐともなく進み行く
二十人ばかりの人々がありました。きっと身分の高い都の人々に違いないことは、上品な顔立ちや立派な服装から、すぐそれとわかりますが、一体どなた方なのでしょう。

これこそ、さき頃、御位をお譲り遊ばされ、今はゆったりと大和の秋をお探りなさろうとの、宇多上皇のご一行です。

御位をお譲り遊ばされて後の宇多上皇は、朱雀院(すざくのいん)にお住まいになりました。もはや御政治を聞こし召されぬので、その御生活は、御ゆっくりなさいました。そこで時折、臣下の者を集めさせられて、詩などの会を催されました。かねがね御信任の厚い、そして、その頃第一流の詩人であった道眞が、その度ごとに、お招きを受けたことは、申すまでもございません。

それでも、寛平の年号が続けられている間は、まだ上皇の御代が終わって、新しい天皇の御代が開けたように思われました。上皇のお気持ちも、そうなると、一層おくつろぎなさいました。

もともと、詩をお好みの、上皇は、天皇であらせられる御頃から、一度大和方面へ御出ましになって、古い歴史の跡をたづね給い、もとの都奈良の風物におふれになりたいとのお考えでしたが、こうして御隠居の御心持ちが深くなられますと、ぜひ、前からのお考えを御実行遊ばしたいと思し召されました。

そこで、今年昌泰元年(898)の秋、是貞親王を始め奉り、お気に入りの道眞、それから詩のうまい紀長谷雄(きのはせお)、歌の上手な素性法師、そのほか合わせて二十人ばかりを御伴に、大和を指してご出発遊ばされたのでした。

上皇を始め奉り、殆どすべてが。詩人か歌人です。楽しげに語っておられるのは、詩や歌の話でしょう。それでなくても心楽しい大和路の旅に、好きな詩や歌の話をしながら進み、また、美しい景色を見る毎に詩や歌を詠むというのですから、その楽しさはまた格別のようです。

奈良では、手向山八幡宮(たむけやまはちまんぐう)にもお参りいたしました。すると道眞は、

この度は幣もとりあえず手向山
     紅葉のにしき神のまにまに

という歌を詠みました。これは、

「この度は旅行中のことで、何もお供えする品の用意がございません、その代わりに、今を盛りの紅葉をおそなえいたしますから、それでお許し下さい。」

という意味です。幣というのは神様へのお供物で、大抵は布か絹で作ることになっています。そこで、紅葉のにしきと詠んだのです。

急ぐたびではありませんから、小川のせせらぎに耳を傾け、山の姿の美しさに眺め入り、ゆっくりと進まれましたが、それでも日数を重ねるうちには、大和の国の南の端ちかく、吉野の山奥にまでたどりつかれました。

吉野の宮瀧(みやたき)には、古くから離宮がありまして、高貴の方々のよくおいでになる所です。吉野の山奥は、山奥は、山は高く、谷は深くて、瀧の眺めは、また格別でした。


第三十九話
そのP
大和への旅【後篇】


道眞はここでも、また、一首の歌を詠みました。

水引の白糸はえて織る機(はた)は、
    旅の衣(ころも)にたちやかさねん
(瀧の落ちるさまは、ちょうど白糸を延(の)べて機を織っているようだ。旅の身のわれわれに、いま一枚の着物をかさねてくれようと、瀧が機を織っているのであろう。)

道眞の声が、瀧の音に消されたかと思うと、今度は上皇のお声です。

宮の瀧うべも名に負いて聞こえけり
     落つる白泡の玉とひびけば
(この瀧は、まことに宮瀧の名がついているだけあって、落ちくる水玉は真珠のように美しく、玉を散りばめた宮殿を思わせる。なるほど、宮瀧とはよくも名づけたものである。)

険しい吉野の山路には、人も馬もつかれてしまいました。二十人ばかりの人々も、今は、前に三人、後に五人と散り散りになって、上皇の御側近くに従いますのは、道眞と素性法師といま一人という、わずかに三人のみとなってしまいました。

つるべおとしといわれるほど、日脚の早い秋の夕暮、それも吉野の山奥では、ひとしお早く夕闇がしのびよってまいります。

心細くなったのか、素性法師は、だしぬけに道眞にいいました。

「今夜のお泊りは何処(いづこ)になりましょう。」

道眞はそれに対して即座にこう答えました。

定めざる前途何処にか宿らん、
         白雲紅樹旅人の家。
(予定を立てての旅ではないのだから、御宿はどこときまってはいない。旅をする人には、白雲のなびくあたり、紅葉したの樹のもと、そこが泊る所でよいではないか。それがかえっておもしろい。)

あらまし、こんな意味のことを漢詩で答えたのです。漢詩が出たら、同じく漢詩でそれにつづけねばなりません。といっても、和歌ならよいが、詩ときては素性法師も、道眞の後につづけられません。上皇もとっさにはよい文句をおもいつかれません。

上皇は紀長谷雄(きのはせお)につづけさせようとお考えになりました。そこで、

「長谷雄、長谷雄は何処にいる。」

と声高くお呼びになりましたが、ただ吉野の山にひびくこだまばかりで、長谷雄の御返事はありませんでした。

つづく

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第一話 其の@男子生まれる【前編】(10/2)
第二話 其の@男子生まれる【後編】(10/3)

第三話 其のA学者の家【前編】(10/4)
第四話 其のA学者の家【中編】(10/5)
第五話 其のA学者の家【後編】(10/6)

第六話 其のB双葉芳し【前編】(10/7)
第七話 其のB双葉芳し【後編】(10/9)

第八話 其のC月の桂【前編】(10/11)
第九話 其のC月の桂【後編】(10/13)
第十話 其のD文武を磨く【前編】(10/15)
第十一話 其のD文武を磨く【後編】(10/17)

第十二話 其のE官途につく【前編】(10/21)
第十三話 其のE官途につく【中編】(10/24)
第十四話 其のE官途につく【後篇】(10/28)
第十五話 其のF母をうしなう【前編】(10/30)
第十六話 其のF母をうしなう【後篇】(11/1)

第十七話 其のG文章博士【前編】(11/3)
第十八話 其のG文章博士【後篇】(11/6)

第十九話 其のH白氏に同じ【前篇】(11/8)
第二十話 其のH白氏に同じ【後篇】(11/10)

第二十一話 其のI讃岐に赴く【前編】(11/12)
第二十二話 其のI讃岐に赴く【後篇】(11/15)

第二十三話 其のJ阿衡の儀【前編】(11/17)
第二十四話 其のJ阿衡の儀【中編】(11/19)
第二十五話 其のJ阿衡の儀【後編】(11/21)

第二十六話 其のK春立ちかえる【前編】(11/23)
第二十七話 其のK春立ちかえる【後篇】(11/25)

第二十八話 其のL歴史家道眞【前編】(11/27)
第二十九話 其のL歴史家道眞【中編】(11/30)
第三十話  其のL歴史家道眞【後編】(12/2)

第三十一話 其のM遣唐使を停む【前編】(12/4)
第三十二話 其のM遣唐使を停む【中編】(12/7)
第三十三話 其のM遣唐使を停む【後編】(12/13)

第三十四話 其のN知命の賀【前編】(12/15)
第三十五話 其のN知命の賀【後編】(12/18)

第三十六話 其のO天皇の師伝【前編】(12/21)
第三十七話 其のO天皇の師伝【後編】(12/26)

第三十八話 其のP大和への旅路【前編】(H.17/1/24)
第三十九話 其のP大和への旅路【後編】(1/24)
第四十話 其のQ右大臣に昇る【前編】(1/29)
第四十一話其のQ右大臣に昇る【後編】(2/9)
第四十二話其のR御衣を賜わる【前編】(2/14)
第四十三話其のR御衣を賜わる【後編】(4/15)
第四十四話其のS禍きたる【前編】(4/20)
第四十五話其のS禍きたる【後編】(4/21)
第四十六話其の21 流れゆく身【前編】(4/23)
第四十七話其の21流れゆく身【後編】(4/25)
第四十八話其の22明石の驛【前編】(5/4)
第四十九話其の23明石の驛【後編】(5/10)
第五十話其の24筑紫への道(7/5)





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菅原道眞公(すがわらのみちざねこう)

・天神信仰の誕生

菅原道眞公(845〜903)は、『三代実録』や『類聚国史』の編さんに関わり、『菅家文草』を著した当代一流の学者・詩人でした。しかし、もともと、政治とは関係のない世界にいた人です。学問を職業とする家に生まれ、祖父や父のように、自分も学者としての一生を送っていこうと考えていました。

ところが、大変に優れた学者だった道眞公は、やがて政治の世界に引きこまれていきます。政治家になることは、道眞公の望む道ではありませんでしたが、藤原氏の勢力をおさえようとする天皇に厚く用いられ、いつしか右大臣の位にまで出世していきました。

道眞公には、政治に対する野心などなく、自分に与えられた仕事を忠実にこなしていただけです。しかし、政権を一人じめしようとする藤原氏によって、朝廷から追い出されてしまいました。こうして道眞公は、自分でも気づかないうちに、政治の争いの中に巻き込まれていきます。遠く九州の大宰府に流されていった道眞公は、自分の人生をなげき、一人さびしくなくなりました。

ところが、道眞公の死後、都では不幸な出来事が相次いで起こりました。その決定的な出来事は、延喜23年(923)、皇太子保明(やすあきら)親王が21歳の若さで、この世を去ったことで、その直後に道眞公に対して本官回復・正二位追贈の処置をとり、朝廷までもが道眞の怨魂の御霊としての威力を認めたのです。

この時、道眞排斥の首謀者と目された藤原時平も、すでに延喜9年に死亡しており、延長3年(925)には次の皇太子慶頼王も年若くしてお亡くなりになり、さらに延長8年の宮中落雷事件もあって、醍醐天皇は身も心も大変お弱くなってしまいました。人々は、それは道眞公の怨霊のしわざだといって、道眞公の霊をしずめるため、神としておまつりするようになりました。これが天神信仰のはじまりです。

(参考文献 『人物 日本の歴史H』国際情報社発行 『神道辞典』弘文堂発行)

※このように、その頃社会では、怨霊というものが大変におそれられていました。今の世の中からはとても理解できないことですが、当時はそうした考えによって政治や社会が動いていたということを忘れてはなりません。


飛び梅
     東風吹かば           
          匂いおこせよ梅の花
              主なしとて春な忘れそ

菅原道眞公が、九州の太宰府へ左遷された時、京の紅梅園の梅に語りかけた歌で、道眞公は梅の花をこよなく愛しておられました。梅は道眞公との別れに耐えられず、そのあとを追い、一夜のうちに太宰府まで飛んだと言います。

この梅は「飛び梅」と呼ばれ、 現在は太宰府天満宮の境内の社殿両脇にあり、毎年1、2月頃には参拝者の心をなごませています。
            
             
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